旧大庄屋 斎藤家と庭園について

初代 斎藤左馬之助は斎藤実盛(※1)の子孫といわれ、慶長3年(1598年)に新発田藩主として溝口氏が入封してからも厚く遇され、新発田組大庄屋に任じられました。
 大庄屋の屋敷かまえの一部とされるこの建物は、旧新発田藩領内に現存する唯一のものですが、時代の変遷と共にその姿や機能を変えてきました。

建てられた当初(建築様式から江戸時代と想定、築280年以上)は、藩主が休息等に立ち寄った土岐などにもてなす書院として使われていたようで、斎藤家の住宅としての機能はありませんでした。
 かつては、主屋の南側にある水路を越えたあたりに住宅が建っていたようですが、老朽化により取り壊され、明治時代以降には、書院に居間、流しなどが付け足され、昭和44年頃にほぼ現在の間取りになりました。

 

 


 その後(昭和59年頃)老朽化した茅葺屋根を金属板で覆うなどの補強が施されましたが、平成10年に新発田市が購入し、平成18年に復元考察に基き、旧斎藤邸の文化資産としての価値を減じないよう、当初の部材と間取りを尊重しながら、コミュニティ施設として整備しました。
 また、良寛が立ち寄った際、感懐を賦したといわれる漢詩(※2)も伝えられています。

庭園の変遷

庭園は、清水園や五十公野御茶屋と同じく、幕府御庭方であった縣宗知(※3)によって作庭されたとの記録があります。
 作庭された時期ははっきりしていませんが、縣宗知が新発田を訪れた元禄を中心とした時代(1680年~1720年頃)と推測されます。
 明治以降、区画整理によって敷地の南西側に変化がありましたが、庭園のある北側はそれほど影響がなかったようです。
 また長期間、必要最低限の手入れしかされなかったことから、当時の原型をとどめていると思われます。
 この庭園の特徴は、園内をめぐる飛石道と集中的に施された組石、そして庭園の中心を穏やかに用水が流されているところです。

※1 斎藤実盛〔さいとうさねもり〕(1111年~1183年)
 越後に生まれ武蔵国永井に移り、源為義、源義朝(為義の長男で頼朝、義経らの父)に従い、保元・平治の乱で活躍した豪傑。
※2 良寛の漢詩〔りょうかんのかんし〕
 良寛が斎藤邸に掛錫したときの詩二篇が草堂集にあます。その一篇を五言六句に要約しました。
詩碑  藤氏の別墅 (春)
去城一里餘   城を去ること一里の餘
偶伴菜樵行   偶(たまたま)采樵(「きこり」のこと)に伴って行く
夾路靑松直   路を夾んで靑松直く
隔橋野梅香   橋を過ぎて野梅香し
家中何所在   家中 何の在る所ぞ
詩書盈長牀   詩書 長牀に盈つ
良寛さまが米倉大庄屋斎藤家(現有機の里交流センター)で読んだ漢詩【全文】
※3 縣宗知〔あがたそうち〕(1656年~1721年)
 千利休の流れをくむ江戸時代中期の茶人で、幕府御庭方を勤めていたとされています。
 小堀遠州の弟子で、清水園や五十公野御茶屋の日本庭園作庭の指導を行いました。