米倉の歴史について

米倉という地名の由来については、優良米を産した領米の倉庫(米蔵)だったことから、初代新発田藩主 溝口秀勝侯の入封後に米倉と改称されたといわれています。


延宝年間(1673~81年)に、散在していた家々を街道筋に寄せ、
村をつくったといわれており、用水を各家の庭に引き込み、
池のある庭を持つ家が集中するなど、昔ながらの風情が色濃く残っている集落です。

集落内を縦断する道路は、藩政時代には「会津街道」の名称で、新発田-五十公野-米倉-山内-赤谷-津川-会津若松 を経て、江戸に至る主要往環道として活躍していました。
新発田から会津へ向かうときは「会津街道」といい、会津側からは「越後街道」といっていました。新発田藩や村上藩の参勤交代にも使われたことから「殿様街道」などともいわれ、新発田にとっては政治・経済・文化の大動脈でした。

集落前後の街道沿いには松並木(藩有林)が植えられ、主には軍事上のためであったようですが、旅行者の利便性を図るなど多目的に活用されていました。今も米倉小学校周辺に僅かに面影を留めています。

当時の宿駅であった街道村落の典型として、集落内の道路には3か所の大曲(直角)があり、沿道には廃藩まで大庄屋を務めた斎藤家や、山林地主であった肥田野家の庭など歴史的遺産が現在も残っています。